小学生の頃   昭和な田舎少年 5人で果てしなく遊び、創造力を養った日々

 

子供の頃の記憶を、

すっかり忘れている方も多いとは思いますが、

僕はかなり鮮明に覚えています。

 

島根県出雲市斐川町という、

家の周りに一面田んぼが広がる、

典型的な田舎町に生まれた僕は、

 

地元の小学校へ行き、

地元の中学校へ行き、

チャリで通える地元の普通高校へ行き、

 

受験戦争も何も無いような、

平穏な場所で育つ、

至って普通の、学生時代を過ごすことになります。

 

小学校の頃の記憶と言えば、

同い年と1つ年下の近所の友達5人で、

ただただ、ひたすら果てしなく、

遊びまくっていたことをよく覚えています。

 

どんな日常だったかと思い出すと、まず朝五時半起床。

 

ラジオ体操のため公民館に向かい、朝っぱらから遊ぶ。

さきほどの五人で、公民館に置かれた遊具で遊んだり、

野球やサッカーをしたり。

夕方六時半まで、ただひたすら仕事のように遊ぶ笑

 

これを6年間繰り返すという笑

 

あんなに遊んで、

よく飽きなかったもんだと、

昔を懐かしんでおります。

 

中学生になると、

 

平日の夕方や土曜日は、それぞれ違う部活動に勤しんで、

5人で一緒に遊ぶ日は、ほとんど無くなっていきます。

 

しかし僕のことが、性根から分かってるニンゲンは、

近所の方を含めて、大体この時代までに

出逢っていた方々だったんだろうなと思います。

 

 

ほったて工場で、父は億万長者

 

小学生時代の話の続きになりますが、

家業の鉄工所の話をします。

 

小学生当時、僕たち家族の住んでいた、

ほったて小屋みたいな家の真隣に、

これまたほったて小屋のような工場が建っていました。

 

建設業としての、鉄工所の倅として生まれた僕は、

そこで10名ほどの従業員さんが、

せっせと毎日朝8時から5時まで働く日々を、

ランドセルを背負いながら、

登下校中に毎日みておりました。

 

それから約20年後に、

 

このみっともないほったて小屋で、

粉まみれになって働いていた時代が、

恐ろしいほど儲かっていたという

事実を知ることになります笑

 

「となりの億万長者」という本をご存じでしょうか。

 

1970年代のアメリカで、長者番付(納税公布)を元に、

億万長者を探しだし、

 

彼らのライフスタイル、ワークスタイルや人となりに、

焦点を当て、そのインタビューをまとめた本になります。

 

調査員が調査を開始し、

すぐに意外な事実に気がつくと言うトコロから、

話は始まります。

 

たいていの億万長者は、

そもそも高級住宅街などには住んでおらず、

 

中小零細企業の自営業者であったという事実です。

 

たいていの億万長者は、

小さな工場やストア、サービス業などを経営し、

毎日せっせと仕事をしています。

 

自分をコントロールする強い精神力をもち、

勤勉に働き、収入より、

はるかに低い支出で生活する倹約家であったという事実。

 

調査員からしてみれば、

あまり面白味のない事実が浮き上がることになるのです。

 

両親のほったて工場経営に関していっても、

全く同じ事が言えるでしょう。

 

加えて当時の日本は、成長期のまっただ中で、

田舎町にも建設業者へのシゴトが、山ほどやってきていました。

 

あのころの中小零細の建築業者や製造業者は、

皆、ウハウハだったろうね。

 

そんなダブルほったて小屋から、

のし上がった億万長者家族の物語を、

ガキの頃から端から見ていた事が、

大変貴重な経験でありました。

 

そして後に、自身も小規模事業者として開業したんだと思います。

そういった生い立ちは、僕を形成している、大きな要因なわけです。

 

ちなみに父の会社は、

現在は工場も新設し、昔では出来なかった、

大規模な建築工事を受注できる体制になり、

立派な建設会社になりました。

 

みなさんも、

 

ほったて小屋に住み込んで、

銀行で信用創造をして、

質素倹約をして、

懸命に働き、

 

20年かけて、億万長者になりましょう。

 

そんな庶民としての夢を叶えた、

祖父母と両親の下に、生まれ、育ちました。

 

有り難い。

そして誇らしい。

 

それが、この噺で言いたかったことです。

 

ご一読頂き有り難う御座いました!

 

次回は、

2001年 大学で商いを学び始める。(東京都多摩市)です!

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